きらきらメンタルブログ

PTSDと適応障害からのV字回復

私の父の事②(私の心理編)

 

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若い頃の私は満たされない父性を付き合う男性に求めていた。

一回り以上年上の男性と付き合う事も多かった。

 

 

ギャンブルにのめり込まず、借金をしない人、お金をもっている人であれば良かった。

 

 

父は詐欺で知人から訴えられそうになったこともある。

どれくらいの額を借り、うまい事を言ったのだろうか。

 

 

自分の親友から、母親の姉の旦那からも借りていた。

お金を借りる事に抵抗がないのか。

 

親友の奥さんからは「悪いけど、うちも困るのよね。」と母が代わりに言われていた。

 

 

両親の離婚後、母の実家で暮らす事になる。

祖母と叔父(母の兄)と私たち家族の5人暮らし。

 

 

叔父は「あいつ(父)とは、縁を切れ。お前たち居候の立場を考えろ。」 と母に言っていた。

父と会うのは絶対的な秘密となった。

 

小学3年~高校3年までの間、叔父と私たち家族は一緒に暮らす事になる。

 

 

私が生意気なのもあっただろう。

躾とは感じてなかったが、暴言、暴力を理不尽な理由で受けて育った。

 

 

「何か問題を起こしたら片親の子供だから。って言われるから、ちゃんとして。

 

「なんで、叔父さんとうまくやってくれないの?追い出されたら、どうするの?頼むから、うまくやってよ。

 

と母から言われていくなかで、小学生の頃の私は

 

「こう言ったら、この態度をとったら大人は満足だろう。」

 

「大人って心まで大人になるわけじゃないんだな。うまく生きるのは難しいのかもしれない。」

 

「上を見たらキリがない。下を見てもキリがない。世の中は、理不尽だ。」

 

「私はそっち側の人間にならない、全て自分の力で欲しい環境は掴みとっていく。うまく生きてみせる。」

 

「早く、早く大人になりたい。弟を連れて家を出る。」 なんて事を考えていた。

 

私は背負い癖と極端な部分を性格にもっている。

 

振り幅の大きな振り子。

 

 

 中学生の時は金銭面で塾に行けないのをカバーするかのごとく、学年で1番の成績をとっていた時期もあった。

 

 

「やりたい事がないのなら良い大学に行き、大きな会社に就職しなさい。」 と母に言われていたのもあり大学を出て大手企業に就職するつもりでいた。

 

 

糸が切れたのが、叔父から頭を何度も何度も往復で殴られた時だ。

「あー、私の新鮮な細胞が死んでいく。」

 

自分の居場所がないなかで、我慢の限界だったのだ。

 

 

「もう、好きなように生きる。親が困ろうが私の人生だ。」

 

 

中学生の私は夜に抜け出して同じような家に不満をもつ、心の行き場のない子達と遊ぶようになった。 

 

 

私生活は荒れていったが、勉強をしていた時期の蓄えで高校は進学校に入学できた。

だが、振りきれていた私は早く家を出たい気持ちから高校生活は1年で終わった。

 

 

最後に叔父から暴力を受けたのは高校1年のとき。

立ち上がり目を反らさずに睨みつける私に、叔父は更に怒り狂った。

 

 

母親も流石に止めに入り、私は 「もう帰らないから。」と家を出た。

 

 

父の住むボロボロのお風呂もない、トイレは共同のアパートに向かった。

 

 

叔父に暴言、暴力を受けてきたこと。

家にはもう帰りたくない事。

高校をやめて働くから住まわせてほしい。 と伝えた。

 

「それは、叔父さん良くないなぁ。 でも、お母さんも心配するだろうから帰ったほうがいい」

私の将来を思っての言葉には感じられず、父に頼った自分が情けなくなった。

 

 

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実際はもっと、ボロボロのアパートでした。

 

 

携帯が母からの着信で埋まった。

「叔父さんも心配してるから、帰ってきて」と留守番電話に弱々しい声。

 

もう帰るものか。と決意した私の気持ちは1週間ほどで収まり、私の子どもの家出は終わった。

 

まずは、お金を稼がないと生活ができない。 世の中は金だ。

 

こうして高校を辞め、働く道を選んだのだ。

 

 

 

 

いやー、、、長いですね(。>д<) 過去編は書くのに時間がメチャメチャかかります笑。 それにしても、私は極端でしたね笑。

 

ちなみに叔父とは、ニコニコしながら今は会話してます。

本心は「忘れてないからな。」ですが。笑

 

そんなに人間できてません。

人間だもの。byみこを

 

 

 

それでは、また。

 

愛を込めて。